こんにちは。ゆりりうすです。

本当は昨日、投稿したかったのです。でも今回はお天気のせいではなくて、スマホの充電器が壊れてしまいました。なので、コンビニに買いに行き正常になったのが今日。どうもすみませんでした。

今日は、私が会った有名人のお話をします。

子供の頃、東京23区に住んでいたので、わりと有名人に会う機会がありました。

それこそ、父が落語家だったので、楽屋に連れて行ってもらうと色々な方がいました。兄は小さい頃、楽屋で五代目柳家小さん師匠に絵を描いてもらったことがあるそうです。兄が「いぬ」とか「ねこ」とかリクエストすると、ちゃんと「いぬ」や「ねこ」を描いてくれたのだとか。

その父に連れられ300人劇場に行ったのが、小学生の時。その日の出し物は「マリー・アントワネット」でした。始まるまで席でソワソワしていたら、隣に座っていた父が「おっ、久しぶりですね。」と誰かとしゃべり出しました。私が父の反対隣の席の人を見ると、永六輔さんでした。

そして、父が亡くなると(私は23歳でした)、こんな派手なお葬式は見たことない、というすごいお葬式でして。落語協会から沢山花は届くは、それとは別にお花を送ってくれたのが、立川談志師匠、篠山輝信さん。弔辞を読んでくれたのが、五代目三遊亭金馬さん(同時)。古今亭志ん朝さんもいらした。

お葬式に来ていた、私の友達はみんなびっくりしていました。お葬式に間に合わなかったので、わざわざ家まで来て、お線香をあげてくれたのが、毒蝮三太夫さんでした。

高校生の時、二子玉川駅で電車を待っていると、反対側のホームに白いスポーツウェアでテニスラケットを持って立っていたのが、石黒賢さんでした。爽やかオーラで目がヤられそうになりました。

やっぱり、その頃かな。渋谷駅でカバンを男前な持ち方をして颯爽と目の前を通りすぎたのは小林聡美さん。同じく渋谷、井の頭線でベンチに座っていた足の長い大きな人は永島敏行さんでした。

小学6年の時、母と一緒に「マリー・ローランサン展」に行ったら、見ている最中なんだか花のようないい匂いがして、そのあとザワザワしてきて、そちらを見ると、沢山の人に囲まれた黒柳徹子さんがニッコリしながら歩いて来ました。匂いから入ってきた人は初めてでした。

でもねー、この記憶と一緒に私はその会場で、初の痴漢に遭ってしまい、あの日の「マリー・ローランサン展」は黒柳徹子さんと痴漢がもれなく一緒に思い出されてしまいます。黒柳徹子さんには申し訳ないです。

20才の時に青山のこどもの城で、世界絵本大会が開かれることになりました。その時私はアルバイトで、船崎克彦さん(ポッペン先生シリーズの方)の助手みたいなことをしていたのですが、船崎さんと歩いている時に後ろから「船崎さん!」と声を掛けられました。後ろを振り向かなくても、誰だかすぐに分かりました。なんとジャイアンの声をやっていた、たてかべ和也さんだったんですね。もうね、日本で声優さんにお会いするって、すごい衝撃と感激が一緒に来るんですよ。それくらい、日本の声優さんの威力ってすごい。しかも、ジャイアンなわけですよ。「心の友よ!」とも「のび太のくせにー!」とも言わず、普通に船崎さんと話していたのがすごく不思議で、まじまじと見てしまいました。

大学を卒業して、勤めたのが絵本屋さん。ある日、平田満さんがやって来ました。「友達の出産祝いに絵本をあげようと思うんだけど、どんなのを選べばいいのか分からなくて。」平田さんはそう言いました。私は張り切って、何冊かの絵本を選んで、プレゼント包みをして、平田さんに大サービスをしました。これを全部1人でやってしまったので、あとで、平田さんが帰られてから、一緒に働いていた女の子に「ゆりりうすちゃん、ずるい!」と言われ、昼食を奢ることになりました。

それから、若き日の片桐はいりさんを電車の中で見かけたことがあります。今では珍しくないけど、当時は珍しい緑色のオカッパの髪で、電車は空いていたけど、すごく目立っていました。

やっぱり、電車の中で横浜銀蝿の皆さんを見たこともあります。結構混んでいたけど、誰も目を合わせませんでした。車内にライオンが紛れ込んでいるみたいだった。

次男を産んで、わりとすぐに母と出版社のパーティーに行きました。その時、とてもキレイなお姉さん達に囲まれて、でもつまらなそうに普段着でいらしてた、椎名誠さんにお会いしました。嬉しくなって手帳に「サインしてください!」と言ったら、親切に、嫌な顔もせずにサインしてくれました。なんですけど、椎名さん、私の顔をじっと見てからサインの横に手足の生えたおにぎりの絵も描きました。その時、次男を産んでわりとすぐって書きましたが、少しというか、私の中では大変太っている頃でした。なので、おにぎりの絵は椎名誠さんにはそう見えたのか、と思い「えーっ!」でした。

これは見たわけではないけど、父と若き日の西田敏行さんが飲み屋で飲んでいて、西田さんは父に「あにさん、俺はね今にすごい役者になりますよ。」と言っていたんだと父に聞きました。本当にすごい役者さんになってしまいました。良い話です。西田敏行さん、有言実行です(偉そうに言ってしまいました)!

そういう話の中でも一番びっくりしたのが、ちーちゃんのパパですね。一体誰だと思いますか?

小学校1年生の時、一緒のクラスになったのが、ちーちゃんという女の子でした。

ちーちゃんはみんなよりも背も大きく、優しく、頭も良く、たれ目でいつもニコニコしている私達の自慢の学級委員さんでした。私も大好きでした。もめ事が起こるとちーちゃんに言えば、公平に考えて良い結果に終わるのです。

その頃、私は母のおかしな趣味で、文化統制をされていました。つまり、本でもマンガでもアニメでも、見て良いものと悪いものがあるんですね。その当時、「魔女っ子メグちゃん」が流行っていたので、見たかったんですが、我が家ではダメでした。私が「見たいなー。」と学校で言っていたら、ちーちゃんが「私の家で見ればいいよ。」と誘ってくれました。もうすんごく嬉しかったのを覚えています。

それで、学校から帰って母に「ちーちゃんの家に行ってくる。」と言って、いそいそとちーちゃんの家に行きました。玄関で、ちーちゃんのママに優しく迎えられて、客間に通してもらいました。客間にテレビがあったんです。客間なので、もちろんソファーも。で、私はソファーにかじりつきながら、すごい格好で真剣にテレビで「魔女っこメグちゃん」を見ていました。すると、カチャッ、と音がしてちーちゃんのパパが顔を出しました。そして「娘がいつもお世話になっています。」って1年生の私に言うのです。いや、お世話になっているのはこっちだし、すごい格好していたし、大人が子供にそんな丁寧なあいさつをするとは思わなかったので、こっちも慌てて「あっ、すみません。こっ、こんにちは。」としどろもどろであいさつをしてしまいました。ちーちゃんのパパは優しく笑っていて、焦げ茶色の高そうなセーター(たぶんカシミア)を着ていました。

その次にちーちゃんのパパを見たのは、学校の校長先生が上がる昇降台の上でした。有名な方なので、なぜか挨拶させられていました。恥ずかしそうに自己紹介をして、恥ずかしそうにちょっと話をして、昇降台を降りました。私達はちーちゃんのパパだと思い、でも、それ以上に気になったのがちーちゃんのパパの格好でした。白の背広の上下だったんですけど、その頃のお父さん達が履いていなかったクロップド丈のズボンを履いていたんです。なので、みんな頭の中で「ちーちゃんのパパ、ズボンが短い!」と思っていました。

今、考えるとすごくオシャレな人だったんですね。その人をその少しあとでテレビ「北の国から」の黒板五郎役で見ることになります。

そうです。ちーちゃんのパパは田中邦衛さんだったんですね。そう言えば、ちーちゃんの名字って田中さんだったな、と後で思いました。

ちーちゃん家はしばらくして引っ越してしまいました。

でも、もう1回会うんです。まだ小学生だったと思うんだけど、父と出かけて横浜駅のホームにちーちゃんとパパがいました。私が「あっ、ちーちゃん!」と言うと、ちーちゃんはやっぱりたれ目でニコニコして、近づいてきてくれました。するとですね、お父さん同士でも「やあやあ、久しぶりですね。」なんてやっているのです。父も知り合いだったようです。考えてみれば、父も芸能人でした。

その後、テレビで映画で幾度となく田中邦衛さんを見ました。

そして、父も田中邦衛さんも亡くなってしまいましたが、私にとってはいつまでも「ちーちゃんのパパ」なんですよ。ちーちゃん、今どうしているのかな?